アレックスはマーゴをじっと見つめた。その顔はさっきより優しかった。それから消えるような声で言った。
「病院にいたんだろ?」 病院? どう言うこと? マーゴはこの通りの数軒先に住んでいると言っていたはずだわ。 「退院して、カルバーンに来たばかりなんじゃないのか? だから顔も全く焼けてない。洋服がアルコール臭いのは消毒液の匂いか。さっきスカートの中に入ったとき思った」 彼女は否定しない。黙って正面を見ている。 「ちょっと失礼」 アレックスは立ち上がり、マーゴの長袖のブラウスのカフスを急に外して、二の腕まで捲り上げた。あまりにも突然だったので誰も阻止できなかった。 「ちょっ、本当に失礼よ!」 アレックスが女性でよかった。保安官に捕まってしまうわ。 「あっ」 私は思わず声をあげてしまった。そこにあったのは切り傷だらけの細くて白い腕だった。手首から肩の近くまで無数にある。全て古くて、最近の怪我ではない。 「あんたはマーゴでもあり、コリーでもあるんだ」 私は口を押さえた。 「貧民街はもう5,6年前に旧市街(オールドタウン)と言う名称になった。呼び名も最近はすっかり定着している。なのにあんたは、俺が訂正しても貧民街と言う。相手を低く見ているのかと思ったが、そうも見えない。純粋に知らないんだよな。隔離されていたから」 マーゴはため息をついた。 「いつも先にコリーが公園にいるのは、マーゴの人格がそれまで隠れているからじゃないのか?」 彼女は下を向いてうなだれている。 「あ、あぁ……ああ……」 彼女は低い声を出した。私たちは息をのんだ。マーゴは何か取り憑かれたように、ふふふっと笑った。少し恐ろしいような悲しいような気持ちになった。 「ふふふ……あぁ……私、前に進めてないんですね。時間をかけて治療して、私の中からコリーは出ていったのに」 マーゴはゆっくりと続けた。 「母親はとても弱い人でした。被害妄想もあって。私のせいで父親が帰って来ないと言って、私をよく打ちました。そのうち評判の悪い宗教にすがるようになりました。娘の体を刻んで悪い毒を出さないと、娘は死んでしまうなどと言われ……私の体をナイフで何度も切りました。とても痛くて恐ろしい体験で、もう耐えられなくなって……」 「コリーが出てきた」 アレックスが呟く。 「はい。母親はずっと機嫌が悪いわけではないので、そのときはマーゴの私です。あの恐ろしい儀式が始まると、私は毛布に包まるようにして奥に引っ込み、コリーに任せていました。儀式が終わると、その後は必ず二人で慰め合ったり遊んだりしたのです」 マーゴは冷めた口調で囁く。 「自分の部屋の中でですけど」 マーゴの家に行こうと提案したら、パニックを起こして叫び出し、必死に抵抗した理由。マーゴをずるいと言った理由……。 つまりそういうことなのだ。 「コリーは……本当に辛かったでしょうね」 マーゴは涙を流した。 彼女はこれらのことを理解するのに数年かかったと言った。 「傷ついたコリーを優しく慰めて手当をすることで、私は自分に起こっている出来事をまるで他人事のようにして、耐えていたのだと病院の先生から言われました」 「どうやって助かったんだ?」 「私は学校に行けないほど貧血で弱っていました。心配して見に来た祖父に発見されました」 私は息を吐いた。よかった。 「祖父は、自分はコリーだと言って暴れて泣き叫ぶ私を見て、衝撃を受けたそうです。もちろん私は覚えてませんが」 「入院した前後の記憶もないのだろう」 彼女は頷いた。 「はい。コリーでしたから」 コリーに任せてしまって……記憶は数年分ないのですと、マーゴは申し訳なさそうな顔をした。 「祖父がお見舞いに来てくれていたようです。とても元気な人で。これからは私が祖父に恩返しをしないと」 「よかった。マーゴさんも無理はしないでくださいね」 「はい。騙すようなことをしてすいません。誰かにコリーのことを知ってもらいたかった。私が彼を忘れてしまう前に。どんどんコリーの存在が消えてきているんです。母親のことも」 「そういった治療なのかもしれないな」 アレックスは特に驚いていない。 マーゴは急にはっきりとした口調で- 「コリーは私を許してくれますか?」 「ああ。もう恨んでない。ずっとあんたの幸せを願ってる」 私も大きく頷いて、マーゴを励ます。 「そうね、幸せにならなくちゃ」 マーゴはアレックスを見て笑った。ここに来て、初めて見た心からの笑顔。 不意に呼び鈴が鳴った。 彼女が話し終わったのを見計らったかのように、一人の男性がやってきた。 「はうっ」 とても背が高く気品溢れる雰囲気に圧倒され、私は変な声を出してしまった。恥ずかしすぎる。 「失礼しました。怖がらせてしまいましたね、お嬢さん」 「い、いいえ! こちらこそ失礼しました」 彼は深々と頭を下げ、黙って分厚い封書をテーブルに置いた。 そして会釈をすると、マーゴをスマートに連れて出ていった。それはあっという間の出来事で、私たちは面食らってしまった。 「はぁん? なんだよあれ、気味の悪い男だな」 どの口が言うのか。 「かっこよかったわ。背が百九十センチくらいあったわよ。ちょっと驚いちゃったわ」 「そんなに高くないだろ?」 「そう? でもすごく高かった。それに礼儀正しくて優しそうな人ね」 「ケッ。てめえの目は節穴だなぁ!」 アレックスの悪態は聞こえないふりをして、ベランダに出た。 窓から通りをのぞくと、紳士はマーゴの肩をそっと抱くようにし、停車している辻馬車に乗り込んでいた。 レディファースト。女性をとても大切に扱ってくれる紳士だわ。 アレックスはすぐさま封書を破いた。 「おっー、すごいすごい! 見ろ! 一週間かけて汚い猫を探してやっと貰える額が、たったの二時間で手に入った!」 アレックスは封書をグシャグシャにして細長い引き出しにいれ、貰ったお金だけを別の箱に移した。 その中から一枚のお札を私に渡した。 「レベッカ、お前は買い出しに行く時間だ」 「あ、本当ね。いい時間だわ」 「牛乳が足りない。二本買ってこい」 「そんなに飲んだらお腹を壊すわよ」 アレックスは上機嫌で、私の頭をくしゃくしゃにするように触った。 アレックスの横を通り過ぎると、そうやって私の髪を触るのだ。まるで散歩中の犬をすれ違いざまになでるように。 「バカだな、あたしがこんなに飲むわけないだろ! 飲むのはこいつ。この薄汚い猫、いや、このお客様に飲ませてやらないと。上等なやつをな!」 まだぐっすりと眠っている猫を見つめ、彼女に聞いた。 「この猫、すぐに返すのではないの?」 「さっき訪ねたら、依頼主が酷い風邪を引いて熱を出していてな。あと二、三日、世話をお願いしたいとさ。また金がもらえる!」 すこぶる機嫌が良いアレックス。 「だから連れて戻ってきたのね。アレックス、今日は調子がいいわね。偏頭痛もなさそう。マーゴの二重人格も早く気づいていたみたいで」 「ああ、スカートの中にもぐったとき、足に傷がたくさんあったからな。気になっていた」 「なによそれ、ずるくない?」 「匂いも薬だったしな」 人並み外れたアレックスの嗅覚。今回も役に立っている。 「人形のような服装は怪我を隠すためだったんだよ」 確かにそうだ。 「……人は見た目ではわからないものね。とても素敵だったから、上流貴族のお嬢様なのかと思ったわ」 「レベッカ、お前はもう少しマシな格好をしたほうがいいぞ。若ければかわいいと思ってもらえると思うな。髪型からしてお前ヤバいからな」 そう言ってアレックスは私の顔の前で、ぶんぶん人差し指を振っている。自分の髪をそっと触ってみた。右側がだけが特にくしゃっとしている。 「なによ、もう! アレックスがくしゃくしゃにしたんでしょ!」 思わずアレックスのせいにして、彼女の背中を叩く。本当はいつもはねているのだけど。 私が大きな声を出すと、眠っていたかわいい訪問者はビクッと体を震わせた。 ***** アレックス商会の薄汚れた看板ー 深夜十二時。 真っ暗な部屋の中、細長い引き出しの中からグシャグシャの紙をもう一度、開く者がいた。 『互いの秘密を共有しようじゃないか』 蝋燭の火を移し、手紙を燃やす。秘密という文字はあっという間に消滅していった。 炎で人影が浮かび上がった。その人影はすぐに小さくなって見えなくなる。 そこに再び現れたのは獣の影だった。 低い唸り声が響いた。ああ、本当にもうダメなんだ。嫌われたわね。 何も始まってないのに……私が終わらせちゃった。 自分がこんな残酷な人間て知らなかった。アレックスのこと、人を殺せるでしょなんて言ったのよ。酷い。許してもらえないわね。 でもこれは……これは言わせてもらおう。 「わ、わたし……落ち込んだのよ。普通女同士の旅は一つの部屋よ。なのに確認もしないで部屋を別にされるなんて…………」 「…………」 「そんなに私のこと嫌いなんだって思ったんだよっ!」 突然、アレックスは私を抱きしめ、心臓が止まりそうになった。アレックスの声は震えていた。 「嫌いな奴と一緒に船になんか乗れないし、飯も食べない。口も聞かない。そんなに器用じゃない。レベッカ、お前がいなくなったら困る」 私は声を殺して泣いている。アレックスの柔らかい胸に顔を埋めて。恥ずかしいけど、もう仕方なかった。 「わかっただろ? 部屋を別にしたのは、お前のためだ。無法島に来たら、この問題は避けられない」 「狼になっちゃうから? 夜中の12時に? ……動物だから鼻や耳がいいの?」 アレックスは無言だった。 さっきまでは寒いと思っていたのに、アレックスの体温も伝わって、甲板の上は夜風が気持ちよく感じた。 「ローズマリーは知ってるのね」 嫉妬ではない。私は安堵して彼女の名前を出したの。前みたいなやきもちじゃない。アレックスの理解者がいてよかった。心からそう思ったの。 「まあな。あいつは人の感情の色とか、いろいろわかるらしい。だから早い段階であたしがおかしいことに気づいた」 あぁ……ローズマリーって、やっぱり普通じゃないのね。 「怪我をしたときは、狼の姿でローズマリーの家に行った。さすがにあの女でも、ひえぇぇぇって驚いてた」 私は吹き出してしまった。想像がつくわ。 「……あの狼がアレックスなら怖くないわ。私のこと嫌いで避けてたわけじゃないなら、よかった」 「……ありがとうな」 珍しい。否定しないのは認めたと言うこと。アレックスは私の髪をくしゃっと触る。いつもの癖。潮風でくせっ毛はさらにくしゃってなってるし、ベタついているけど。 「ありがとうなんて言えるのね……あの男の子、ジョーイを探すのはでも大変だったでしょ? いくら嗅覚が優れているからって、あんな広い山で
「そう。そうなの、危機感ゼロよね」 そしてまた沈黙。 波の音が二人の間を隔てていた。アレックスはなにも言わない。長い髪はなす術もなく潮風に持っていかれて顔にかかったまま。 私は続ける。 「あの宿、転落防止で開かない窓が多いのよ……部屋もね。窓が開かないから無理やり割ったのね。そして二階から飛び降りた。狼だって足を痛めるかもね。男にも蹴られていたし」 「……な、なんのことだ」 アレックスの足は少し落ち着きなく動き始めた。 「殺そうと思えば簡単に喉とか噛めたんじゃないのって……」 酷いわ。 「怪我させないように手加減をしたんでしょ?本当はもっと……」 私、すごい酷いこと言ってる。声が上擦っていた。 「あんなやつら噛み殺せばよかったのに!」 私は叫んでいた。ああ……ダメだ……。 でもやめられなかった。 「だから……蹴られてしまったのよ。本当の狼なら私たち大怪我……死んでいたかも」 私は泣いていた。アレックスは黙って私を見つめていた。 「アレックス! 何か言ってちょうだい」 「まぁ……あぁ……不幸中の幸いとしか言いようがないな」 「なによ、それ。前からおかしいと思ってた。真夜中は絶対に私を部屋に入れないし。私がそばにいるときは追い出していたわ! 初めて会った夜もそう」 初めて会った夜は、なにからなにまで狂ってた。でもなぜか今は愛おしいとさえ思う。 「アレックスの部屋の一番奥、たまたま鍵が外れてて扉が開いて見えちゃったの。一度だけ」 私はここで大きく息を吸った。言うべきか一瞬迷った。今なら冗談だと、全部笑い飛ばせる? 抱きついて、嘘よ、ごめんごめんて……。 いや……。もうそれは十分かな。 「奥の部屋、大きな檻があった。あれは自分用なのよね? 動物の毛があちこち床に落ちているのだって……ペット探偵をしているからじゃなくて-」 「わかったよ」 八百屋の子が扉を開けようとして、あのとき開けるなと怒鳴ったわ。すごく怖かった。 「なにが? なにがわかったの?」 「もういい」 アレックスの抑揚のない声。なんにも興味がないときの声だった。 ああ……終わった。 もう私たち、ダメなのかもしれない。
無法島が小さくなっていく。私は黙ってその場から離れた。 「おい、レベッカ。具合悪いのか?」 アレックスが私の腕を強く掴んだ。彼女は眉間にしわを寄せ、困った顔をしている。その表情は嫌いじゃない。 私は無表情のまま、視線をそらした。 「風に当たってくる。船酔いしたみたい」 「はぁ? 今、出航したんだぞ? もう船酔い? まぁ…………あたしは休憩所で寝てくるからな」 「うん……ゆっくりしてきて」 一人甲板に残って、真っ暗な海を眺めていた。いろいろ楽しかったわ、とても。マリアたちのショーもそれはそれは素晴らしかった。ドキドキして興奮するような歌とダンス。 だけど聞いてはいけないこともマリアから聞いてしまった……何か面白かもしれない。 まぁ、その件はカルバーンに着いてから考えよう。 今はもっと大事なことがあるの。これからのアレックスと私のことよ。 ***** 無法島が見えなくなり、しばらく経った。真っ暗な海の上。なにも音がしないより、少し荒れた波の音が私にはちょうどいい。心のざわざわも聞こえなくなりそうで。 船に揺られながら、私はアレックスに聞かなくちゃいけない。 アレックスが暫くして甲板に上がってきた。 「レベッカ……お前、まだ顔色が悪いな。大丈夫か?」 「あぁ、うん。大丈夫よ」 そう言われて、確かに体調は優れないのだろうと思った。でも頭はすごくクリアだった。 「アレックス、大事な話があるの」 聞くなら今しかない。時間が経ったら、アパートに戻ったら、うやむやになって全て曖昧でわからなくなってしまう。アレックスは黙って私の目の前に立った。 「ねえ、アレックスは疲れてないの?」 「あぁ……疲れてるよ。ちょっと寝たけどな。最悪だな。ほとんどただ働きじゃないか。しかもおかしなことばっか」 「そうね……足は平気?」 「あぁ、まあな。もう治った」 「ありがとうね、アレックス。悪い観光客二人から守ってくれて」 「ああ……」 アレックスは返事をした後、はっとして、無言になった。アレックスの失態なんて本当に珍しい。よほど疲れが溜まってるのね。 私はふっと笑った。アレックスは片目をつぶって顔をしかめた。分が悪いと足をガタガタさせたり、片目をつぶるわよね。 私が優位に立つのはこのときが
次の日、グエンのお葬式は厳かというよりは、お祭りのように盛大に広場で行われた。 人々は、グエンが落下した場所に(違う場所でとっくに死んでいるのに)花を一輪ずつ置いて、手を合わせた。 今まで忘れ去られていて、誰も鳴らさなかった鐘楼の鐘を、黙祷するようにみんなが鳴らしていった。 私も落ち着いた頃に、一人で鐘楼に登って鐘を鳴らした。鐘楼から見下ろす街並みや、夕陽はとても美しかった。 ずっと見ていたかったけど、後ろから観光客が何人か上ってきていたから、私は長居はせずにすぐ降りた。 よくわからない相手に同情し、人々は悲しみを分かち合い、なんだか感動すらしている。悲劇の舞台を観劇した後のようにー 知らない方がいいことってたくさんあるんだわ……。 結局この日も、無法島に私たちは泊まることにした。アレックスは、ヌーンブリッジのある組織の悪事をいろいろ知っていて、それを料理長やマリアに詳しく教えていた。きっと無法島にとって役に立つのね。 私は厨房でパンを作る手伝いをしたり、美味しく作るコツを教えたりもした。そのとき無法島の噂話もいろいろ聞こえてしまった。 ノーマン・ダークが本当はこの世にいないことなど。数年前に病気になってもう亡くなっていたの。それを知られたら周辺の街がどうするかわかっているのね。 無法島はノーマン・ダークに守られているのよ。それを街の人達もよくわかっているの。 ノーマンを演じていたのは、大衆食堂で暴れた人だった。彼は本当は無法島の人間だったの。これには驚いたわ。 ***** 「最終便、出港します!」 船長が呼びかけ、汽笛が鳴った。 アレックスが叫ぶ。 「ちゃんと給料、本島に持ってこい! カラバーンのメープル通りだぞ!」 「はいはい、まぁ、気が向いたらなぁ」 ウインクするグエン。 「ふざけるなテメェ! どれだけ働いたと思ってんだよ。グエンの金の亡者! くたばれよ」 港に残ったグエンや街の人々は、満面の笑みで手を振っている。マリアや料理長は忙しくて来れなかったのは少し寂しかった。 「アレックスー! また来いよー」 「二度と来るか、お前はアラバマの二番弟子だ! あたしには一生、敵わないんだぞ!」 アレックスは大声で叫んでいる。私は精一杯の笑顔で、みんなを眺めた。
「離してください」 できるだけ低い声でゆっくりと言った。 「黙っててやるからさ、こっちに来いよ。明日になったら一緒にヌーンブリッジに帰ろうや」 「ふーん。よく見ると、可愛いなぁ。俺たちの部屋に来なよ」 かなりまずいわ。 「結構です!」 後ろからも小さめの男に腕を掴まれる。 「いい土産ができそうだぜ。最近パッとしないからな」 「やめてよ。人を呼ぶわ」 「誰が来るってぇ?」 「無法島には保安部隊はいないぜぇ……」 「ノーマンの部下は今夜はいねぇぞ。外出禁止って広場でお達しが出ただろ? 人が死んでんのに……規律を守らないと、こーなるんだよぉ」 なに自分たちに都合がいいこと言ってんのよっ……ギラギラした目が間近に迫ってきて、顔を掴まれる。 やめて……。 そのとき、ガラスが割れる音が響き、目の前に大きな獣が現れた。 真っ赤な光る目ー あのときの獣! これ以上ないピンチの上に、獣に食い殺されるなんて運が悪すぎる。私ってそんなに悪いことした? そりゃ、外に出た私がいけないんだけども! 「なっ……野犬か?」 「違う……こいつ、狼だ」 男二人が私を盾にする。卑劣極まりないんだけど! ……て言うか、これ狼? こんなに大きいの? 「ちょっ、……卑怯者!」 「お前が食われろ!」 「男のくせに、女を盾にするの?」 私も負けじと言い返す。こんな所で死にたくない! 「離して……バラバラに逃げましょう!」 提案したが、二人とも離してくれない。 「う、うるせえ!」 唸り声を上げ、狼は大きな口を開けて私たちに飛びかかる。 ひええええぇ! 狼はなぜか私を飛び越え、大柄の男の腕に噛みついた。男は叫んで、足で狼を蹴り飛ばす。 狼は一旦離れ距離を取ると、唸りながら私たちを赤い目で睨んでくる。 ああ……今まで生きてきて、今が一番ピンチだってば!アレックスのことが頭をよぎる。 もう会えないかもしれない……。 狼はもう一人の小柄な男の足に噛みついた。男は足を振り解こうとするけど、狼は離れない。 「い、痛えー! た、た助けてくれ!」 「くそっ!」 大柄の男が怖がりながらも、また狼に蹴りを入れた。 狼が足を離した瞬間、男二人はなにか叫びながら逃げて行った。
ゆっくりとお湯に浸かりながら今日一日のことを思い返した。このまま寝ちゃいそう……。 アレックスは鐘楼から飛んだり、屋根の上では危なっかしく戦う真似をしたり、男の死体も運んでいる。さすがにゆっくりしたいわよね。 私が協力したことと言えば、広場の観客に混ざって、人々を誘導すること。 『キャー、見て! あれを見て!』 と、鐘楼を指差した女……あれは私なの。大人も子供も、広場にいた全員が煙突のような高い鐘楼を見上げたわ。 他にも、なんて野蛮な!獣ー!とか、キャーやめてー、危ない!など、かなり煽ったの。 そうするようにグエンに言われたから。屋根の上での演技は危なっかしくて、アレックスが落ちるんじゃないかと心配で、ハラハラして本心で叫んでいたけどね。 それにつられて皆もどんどん声を出した。あとはもう言わずもがな……どんどん盛り上がっていった。 広場を後にするときは混乱がないように、早く帰りましょーとか、こっちが空いてますよなんて言ったわ。 話し声が聞こえた。 広場で手配書と同じ顔のグエンが落ちてきて(本物のグエンではないけど)近くで見た見物客は寒気がしたそう。しかもノーマンが触ったら落ちた男は涙を流したって。 ノーマンが、男の体から出てきた魂を奪ったように見えたって得意げに話していて、みんな興味津々に聞いていたわ。まるで怪談話みたいね。 多分なんだけど、あの死体は半分凍っていたから、運んでいるときも冷気が漂って寒かったの。それに人間が触れば体温で、男の体に付いていた氷の粒が水蒸気になって涙に見えたのかもしれないわね。 なんて……そんな科学者みたいなことを言っても、広場の人たちは、あの場で死んだと思ってるし、怪奇現象としか思えなかったわよね……。 それにしても女の子の二人旅って、寝るときまで楽しくおしゃべりするもんだと思ってた。 そういやアレックスと夜を明かしたことはない。まぁ、アレックスはベラベラ語り合うなんて嫌だろうけど……。 ローズマリーとだったら? お泊まり会は開催されたのかな? そんなことを考えながら、湯船から出る。 一人で部屋にいても、お酒が飲みたいわけでもなく、窓から夜の通りをぼうっと眺めていた。 ガス灯の横に、高そうな書類鞄が置きっぱなしなのが見えた。誰だろう……忘れ物かしら? 今日は夕方